プリンキピア成立までの道のり(1)
ニュートンの少年時代
アイザック・ニュートンは、1642年、イングランドのリンカーンシァ州、ウールスソープ村に生まれた。生まれる以前に父が亡くなり、その後、母は牧師と再婚したため、ニュートンは幼年期から少年期にかけて母方の祖母に育てられた。近くの学校で初等教育を受けた後、ウールスソープから離れたところの王立学校に入学した。1656年に再婚した牧師が亡くなり、母はその子どもを連れて村に帰ってきた。母はニュートンに農業をやらせようとして彼をウールスソープ村に連れ戻した。しかし、ニュートンは農業には不向きであることが分かったため、再び王立学校で勉強を続けることになった。
ニュートンは機械工作や絵がうまく、風車の模型や水時計を製作した。また、薬屋に下宿していたので、化学や物質理論に興味をもち、薬品で実験をしていた。また、母と再婚して亡くなった牧師が残した200-300冊の本を読むことができた。このようにして、ニュートンは次第に自然について学んでいったが、純文学には興味をもたなかった。
ニュートンの学生時代
1661年、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでサブサイザーとして認められ、間もなくサイザー(免費生:カレッジの雑用を手伝って、学費を免除される学生)として入学を許可された。大学での最初の二年間は、算術、ユークリッド幾何学、三角法などの数学を学び、コペルニクス体系やアリストテレスの自然学、神学などの本も読んでいた。1663年には、アイザック・バロウ教授から光学の講義を聴いた。さらに、光学や無限算術、幾何学などの大変高度で難解な本を読み、これらについての研究を始めるようになった。翌年、ニュートンはスカラー(学生)となり、広く読書を始め、光学、物質、運動、天文などの幅広い自然分野について学んだ。
学生時代のニュートンの取り組み
ここでは、学生時代のニュートンの思想を中心に考えていきたい。
1664年から1665年には、デカルト、ガリレイ、ウォルター・チャールトン、ガッサンディ、ボイル、ホッブズ、ケネルム・ディグビー、ヘンリー・モア、ストリート、ブーリオーなどの書物を読み、多くの考え方を吸収した。以下にその主なもの(力学や天文学に関する書物)を挙げる[4]。(*印は、新潟大学図書館内あるいは教育学部理科教育教室にある。)
デカルト:哲学原理(1644)*、方法序説(1637)*
ガリレイ:天文対話(1632)*、新科学対話(1638)*
ピエール・ガッサンディ:動いている物体によって分かち与えられた運動について(1642)
ウォルター・チャールトン:エピクロス・ガッサンディ・チャールトンの自然学(1654)(原典)*
ホッブス:物体論(1655)
ケネルム・ディグビー:二論文(1644)
ストリート:カロリーナ天文学(1661)
ブーリオー:フィロラオ天文学(1645)
学生時代のノートの中には、『哲学的諸問題』(Quaestiones quaedam Philosophicae. 1664-1665年)という部分がある。その中での主な項目は、「原子」、「量」、「場所」、「時間と永遠」、「運動」、「宇宙の秩序」、「強制運動」、「隠れた性質について」、「光・色・視覚について」などがある。
「太陽からの主惑星の平均距離は、それらの周期の1.5乗に比例することに注意せよ。」と記していることから、ニュートンはケプラーの第3法則に注目していたことが窺える。「重さを引き起こす物質は、物体のすべての孔を通り抜けなければならない。」とあるように、ニュートンは、当時、下降するエーテルのような物質のシャワーが重さを引き起こしていると考えていたようだ。
以上のようなことから、ニュートンにおいても例外ではなく、最初は先人たちの考えを多く吸収し、そこから重要と思われる部分を抜き出し、それらをまとめることから出発していることが分かる。
ニュートンが学生の頃には、すでに以下のような説が広まっていたようだ。ただし、ガリレイやケプラーの実験や観測による報告の他は、実験的にあるいは数学的にしっかりとした証明などはあまりなされておらず、仮説にとどまるものが多かった。
ニュートンが学生のころから死去する頃まで、デカルトの説は特に大陸では有力であった。一時期はニュートンもデカルトの説に傾いたこともあったが、研究の結果、その多くが間違いであることが分かり、これをいかに理路整然と否定し、正しいと思われる自説を説明していくかがニュートンの課題となっていった。ニュートンが学生の頃の諸説を簡単に紹介した後で、その後のニュートンの研究を見ていく。
コペルニクスの思想
地球の中心は宇宙の中心ではない。それは単に、月の天球の中心であるにすぎない。地球を含めてすべての天球は、太陽を中心として回転していることから、太陽が宇宙の中心である。
太陽と地球の距離は、天空の高さに比べれば無に等しい。天空(恒星天球)に見られる運動や太陽の運動は、どれ1つとっても天空や太陽の運動ではなく、地球の自転と公転から生じる。惑星の見かけの逆行、順行は、惑星自体の運動から生じるのではなく、地球の運動から生じる。
天における非常に多くの見かけの不規則な運動を説明するのに地球の運動だけで十分である。
ガリレイの思想
木星のまわりに(16個あるうちの)4つの衛星を発見した。恒星は宇宙のはるか遠くに無限に存在し、宇宙は大変広大である。
地球は太陽のまわりを回っている。天と地は別世界ではなく、天も地も同じ法則が成り立つ。
瞬間速度の概念を導入し、落下距離は時間の自乗に比例する。投射体の運動は、水平方向の等速運動と自由落下の加速運動との合成運動である。
また、相対運動についても言及している。
ヨハネス・ケプラーの思想
惑星を動かしている原動力は、運動霊魂ではなく、力である。
ケプラーの第1法則として、惑星の軌道は楕円であり、太陽はその焦点のひとつである(楕円軌道則)。第2法則として、惑星と太陽とを結ぶ動径によって描かれる扇型の面積は、時間に比例する(面積速度一定則)。第3法則として、惑星の周期の2乗は、その楕円軌道の長半径の3乗に比例する。
デカルトの思想
宇宙空間に満ちている微小な物質粒子は互いに接しながら渦動運動をしている。 太陽の周りを惑星が回転しているのも、地球上の物体が地上に落下するのも、この渦動による影響であると説明している。
すべての運動は物理的接触によって起こるという近接作用と運動量保存の概念を取り入れた。
また、その他の科学者から、「惑星を運動させる力が存在するならば、それは距離の2乗に逆比例して変わること、地球の外側から内側へ下降してくるエーテルのような物質のシャワーが重さを引き起こすこと、作用の相互性」などの仮説が、ニュートンの本格的な研究の以前にすでに提示されていた。
1665年、ニュートンは大学を卒業し、独自に研究を始めることになった。この後、ロンドンでペストが猛威を奮い、大学は閉鎖された。1年後にペストが弱まり大学は再開されたが、すぐに大学が再び閉鎖され、ニュートンは1667年春まで田舎で過ごすことになった。
この大学閉鎖の時期にニュートンは研究に集中し、独力で微積分法、光と色の新しい理論、万有引力の法則を発見したとされている。一般にこの2年間は「驚異の年」と言われている。
ニュートンは、研究の初期に、衝突論について自分の『雑記帳』に記入している。これはニュートンの考えの過程を知る上で、興味のあるものである。それでは、次にこの雑記帳について考えてみる。